40th Anniversary | 40周年記念特集

10年前にデビュー30周年記念として企画し、今回復活した「トークセッション」第2弾。
ニューアルバム「夢のあとさき」でライナーノーツを書いてくださった天辰保文さんをお招きしての音楽談義。
今回、来生たかおが選んだお店は、「今半」。和のしつらえとBGMも和やかに、コース料理を頂きながらの対談です。

【ホスト】

来生たかお(きすぎ・たかお)
1950年11月16日 生まれ。東京都大田区大森出身。O型、身長:165.7cm、体重:67.5kg、足サイズ:25.5cm、視力:老眼。
妻と13才になる『ミミ』というミニチュアダックス犬と暮している。
(長男家族は千葉に、次男は近くに住んでいる)
好きな食べ物:ごはん、味噌汁、醤油ラーメン、もりそば、ナポリタン、おいしいステーキ

趣味:・読書
向田邦子、山口瞳、川本三郎、半藤一利、岸田秀、吉本隆明、小沼(おぬま)丹
・映画
古い日本映画、古い洋画、新しいものもいいのがあって『100歳までの華麗なる冒険』、こんな面白い映画は久しぶり。おすすめ
・麻雀、スポーツを観ること
競馬、最近やるようになった。けっこう競馬場内は広くて、なんだかんだ歩くので、いい運動になるのではないかと思っている
座右の銘:『明日できることは今日するな』

【ゲスト】

天辰保文(あまたつ・やすふみ)
1949年9月22日 福岡県生まれ。大学卒業後、音楽雑誌の編集を経て、76年よりフリーランスとして活動。現在、新聞や雑誌を中心にした執筆活動や、アルバム解説の執筆などの他、ラジオ出演、DJ活動も行なっている。著書に『ゴールドラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『ロックの歴史〜スーパースターの時代』等がある。

【外 野】

末﨑正展(すえざき・まさのぶ)
1963年生まれ。ニューアルバム「夢のあとさき」ディレクター。

小松裕二(こまつ・ゆうじ)
1962年生まれ。来生たかお担当マネージャー。

福永 恵(ふくなが・めぐみ)
1967年生まれ。事務所スタッフ。

Part 3

井上陽水さんとは縁が深いんです(来生)
来生
ビートルズって、日本でレコードが発売されたのは1964年でしょ。ちょっと遅いんですよね。デビューは1962年とかで。なぜか僕は、運よく1966年7月1日に武道館に行ったんです。
天辰
え? ビートルズの?
来生
そう。
末崎
それはすごいですよ。
来生
でも、その時は、まだベンチャーズに夢中で。インストものが好きだった。正直、ビートルズにあまり関心はなかったんだけど、たまたま、姉が友達3人と行く予定だったのが、1人、行けなくなっちゃって、それで弟の僕が誘われて見に行ったんです。見たんだけど、最初に日本のドリフターズとか、樹木希林の旦那の……
天辰
内田裕也さん?
来生
それから、ブルーコメッツもいたのかな。やたら長くてね。「いつ始まるんだろう」と。
末崎
渡辺プロが仕切ったんですよね、前座を。
来生
クレイジー・キャッツも出ていた?
末崎
クレイジー・キャッツはどうだったか……ドリフターズは有名ですよね。
来生
それで、始まったら、あっという間に終わっちゃった(笑)。当時は、35分みたいな決まりがあって。僕がいたのは、上手の真横で、ジョン・レノンが上手にいたのかな。始まったと同時に、二人ぐらい、一瞬にして失神。担架で運ばれて。「ああ、もったいないなぁ」と思いながら(笑)。そういのが印象に残ったんです。上手側だったこともあるんだろうけど、よくわからなかった。後からテレビを見たら、ポールのマイクが横にズレていて(笑)。
末崎
直したんですよね。
来生
そうそう。こんなことをやっていたんだな、とか。だから、当時はまだ、ビートルズには……僕は、「ラバーソウル」からなんです。ちょうど、その年ぐらいじゃないですか、「ラバーソウル」が発売されたのって。姉が持っていて、姉の部屋から流れてきた。いくつか、印象に残る曲があったんだけど、べつに、それが作曲のきっかけというわけじゃないんです。当時、姉の友達がギターを持って遊びに来て、姉の部屋でフォークソングを引いていた。「500マイル」とか、「パフ」とか。
天辰
PP&Mとか、そのあたりですか?
来生
そうそう。それから、弾厚作さん……加山雄三さんの「君のスープを」なんかを歌っていて。いい曲なんですよ、これ。それで、その中の一人が自分の作った曲を歌っていたんです。それが印象に残っていて。「あ、曲を作るっていうのも面白そうだな」と。それに触発されたというのが、僕が曲を作るきっかけだったんです。ビートルズじゃない。
天辰
いくつぐらいの時ですか?
来生
高校3年ですね。17歳の時に作り始めたんです。姉の部屋に散文っぽい詞がいくつかあって、そこに「サラリーマン」っていうタイトルの詞があったんですよ。ひばりが丘に引っ越した時、僕は近くの学校に転校しちゃったんだけど、姉はそのまま駒込に残ったんです。越境通学みたいな感じで。ひばりが丘から通学していて、朝、バスと電車でサラリーマンと一緒になって、その印象みたいなものが、散文詩になっていたんですけど、それに僕が勝手に曲をつけた。1曲できたからと言って、次ができる保証はないじゃないですか。でもね、できるんです。それで20歳の時に「レット・イット・ビー」を聞いて、ピアノに魅せられた。ポールがピアノを弾いて歌うのが、えらく格好良くて。それで、ピアノもいいな、と。それで英断ですよ。近くのピアノ教室に習いに行った。それまでは、曲を作っていたけど、音楽の知識は皆無で。コードだって、Cのコードがどんな音で成り立っているのか、それすらも分からないで、ただ、「こう押さえればCになる」と、そんな感じで作っていたから。歌詞の上にコードを記してね。メロディは頭の中。それで、どんどんできてくるんだけど、ピアノに魅せられて、ピアノのほうが作曲するにはいいな、と。そこからですね、音楽を勉強したのは。譜面の書き方とか。
天辰
じゃあ、全部独学ですか?
来生
譜面は教わったんです。20歳の時に埼玉の北本っていうところに引っ越しちゃたので、ピアノを習ったのは半年くらいでしたけど。
末崎
有名な話があって、来生さん、お家で紙鍵盤で練習したと。
来生
そうそう。週1回のピアノ教室を、早く覚えたいから週3回にしてもらったんだけど、家に帰るとピアノがないから、紙鍵盤で練習したんです。
末崎
それは結構、感動的な話ですよね。
来生
それで、20歳の時にはバンドも作ったんです。
天辰
どういう音楽をやってたんですか、そのバンドでは?
来生
もちろん、ビートルズもやっていて、あとは自分のオリジナルです。そのバンドでライブハウスのオーディションを受けて、「ジャンジャン」は落ちたんですけど、渋谷の宮益坂の「青い森」、銀座の「タクト」、新宿の「アシベ」で歌っていました。
天辰
「青い森」って、結構、色んな人を輩出していますね。
来生
登竜門だったんです。当時、RCサクセションは、アマチュアだったんだけどもう人気があった。人気絶頂でしたよ。泉谷しげる氏もいたし。古井戸もいた。そこで、ある時、アンドレ・カンドレ……井上陽水氏と一緒になって、交代でステージを受け持つことになったんです。彼はギター1本でやっていましたので、休み時間に「後ろでピアノを弾いてくれないか」と誘われて。それが、この世界に入る“とば口”だったんです。陽水さんとは縁深いと思うんですよ。ちょうど、陽水さんがソニーからポリドールに移って、本名で「断絶」というアルバムを作るという過渡期だったんですけど、関東近辺のライブでは、僕が後ろでピアノを弾いていた。レコーディングにも、ギターとか、コーラスとかで参加させていただいたので、「来生孝夫」という漢字表記の本名でクレジットされています。それで、当時、陽水さんのディレクターだった多賀英典氏と面識を持ったんですけど、後に、多賀さんにデモテープを持っていたのがデビューのきっかけになりました。その他にも縁があって、石川セリさんとのジョイントコンサートに出たんですけど、そこでかみさんと出合った。あと、車の免許を取ったのも、陽水さんの影響なんです。あの人、車の免許を取ったのが遅かったんですよ。車のコマーシャルで、助手席に座って「お元気ですか?」と言っていた時は、まだ免許を持っていなかった。で、僕が48歳の時に、久しぶりに陽水さんと会ったら、「なんだ来生、まだ免許を取っていないのか。ダメだよ、免許を取らないと」と言われて。
天辰
僕も40歳を過ぎてから取りました(笑)。
来生
本当ですか? 遅いですね(笑)。
天辰
釣りに行くのに、どうしても必要になって(笑)。釣りって、道具が多いし、駅から離れた不便なところに釣り場があったりするんです、それで取りました。
来生
昔は16歳で軽自動車の免許が取れたんですよね。当時、えつこのボーイフレンドがスバル360に乗ってよく遊びに来ていてね。
天辰
僕の友達も結構、乗っていましたよ。スバル360。
来生
その頃、「いいな」と思っていたんですけど、結構、大変でしょう、免許を取るの。そのうちに簡単に取れるようになるだろうと思っていたんだけど、いくら待っても変わらない(笑)。で、あきらめちゃったんです。そうしたら、陽水さんにそう言われて、「50歳前に取ろうかな」と。英断ですよ、それで、教習所に行って、取ったんです。そんなわけで、陽水さんとは、結構な縁がありました。
天辰
やっぱり、来生さんにとって陽水さんは欠かせない存在ですか?
来生
そうですね。「青い森」で聞いていて、印象に残っているのは、あの人のオリジナル曲じゃなくて、ポール・マッカートニーの「モンクベリー・ムーン・デライト」をギター一本で唄っていたのには度肝をぬかれた記憶があります。。
自分で詞を書こうとは、まったく思わなかった?(天辰)
来生
その頃のデモテープは、マイクを置いて、ギター1本で歌って録ったものですけど、業界のことなんて知らないから、陽水さんのレコーディングで名刺をもらっていた*多賀さんに持って行ったんです。僕は客観的に自分の曲に自信があったから、すぐに返事が来るだろうと思っていた。「すごい曲だから、すぐレコードにしたい」って言われるだろうと勝手に思っていたんです(笑)。でも、1週間経っても、2週間経っても、なしのつぶて。結局、こちらから「どうだったでしょうか」と多賀さんに連絡してみたら、「レコードになるような曲はないね」と。今、思うと自惚れでしたね。その通りだった。かなり落胆したんですけど、「他に行っても、この人に認められないとダメだろう」と思って、その後も、ある程度、曲がたまると多賀さんに持って行ったんです。その当時、もう多賀さんは、小椋佳さんと陽水さんが売れちゃって、キティレコードを立ち上げていたんですけど、「しつこい野郎だな」と思ったんじゃないかな(笑)。で、お情けかどうか、わからないけど、多賀さんも、ちょっと潤って、力もあったんでしょう。「スタジオを貸してあげるから、そこでデモテープを作れ」と言われたんです。なぜか佐瀬寿一っていう、「およげ!たいやきくん」を作曲した人と二人だったんですけど、自由にスタジオでデモテープを録らせてくれた。キティレコードで、宮地優子さんの下でインペグのバイトをしながら曲を作っていたんです。インペグって、「インスペクター」の略なんですけど、アレンジャーから指名されたミュージシャンに連絡して揃えるっていう仕事で、ギャラをもはらわなければいけないので、レコーディングが終わるまでスタジオにいなくちゃいけない。当時のスタジオには、田中清司とか、村上“PONTA”秀一、大仏さん、大村憲司さんとかがいました。是方博邦、浜口茂外也も。
*…多賀英典。当時、小椋佳さんや井上陽水さんのプロデューサー。
天辰
綺羅星のような人材が、その頃はいましたね。
来生
当時のギャラは1時間4,000円でした。でも、ある日、突然、マンタ(松任谷正隆)が来たんですよ。毛皮のコートを着て(笑)。「すごいな」と思ったんですけど。そうしたら、「僕はオクターブですよ」って。8,000円だったんです。倍なんですよ。「えー、この人、そんなにすごいんだ」と(笑)。そのうちに、僕もやっと認められた。亀渕友香さんが「リッキー&960ポンド」から独立してソロになったんだけど、多賀さんが担当することになって、「1曲だけいい曲があるから、亀渕に歌わせる」と。それで「酔いどれ天使のポルカ」という曲がレコードになった。これが「来生えつこ・来生たかお」でレコードになった初めての曲です。1974年ですね。
天辰
もちろん、えつこさんの詞は素晴らしいんですけど、自分で詞を書こうとは、まったく思わなかったんですか?
来生
散文派でもなければ詩人派でもない。詩の才能はないです。僕はメロディ人間なんです。まずはメロディ。ランク付けすると、メロディ、ボーカル、アレンジ、詞なんですね。ボーカル、アレンジ、詞っていうのは、そう差がなくて、まずはメロディ。小学生の時、「雨に咲く花」で痺れたのは、センチメンタルなメロディだったと思うんです。出だしの「およばぬことと〜」っていうメロディが……
天辰
なんで、あの頃の曲って、覚えているんでしょうね(笑)。不思議ですよね。だいたい口ずさむことができますからね。
来生
当時、「およばぬことと」なんていう言葉は知らないわけで。サビの部分の「ままになるなら〜」も、メロディがすごく良かったから、言葉も知らずに歌っていた。「“まま”って、なんだ? お母さんになるのか?」って感じで。その頃はレコードを買うお金もないし、歌詞カードを見るわけでもない。テレビで歌っているのを、そのまま覚えるわけです。「有楽町で逢いましょう」だって、途中、「何を言っているんだろう」という部分があるんですよ。「ぬれてこぬかと」って、何だろうと。「ぬれて・こぬかと」って、歌ってくれれば、なんとなくわかるんだけど、「ぬれてこ・ぬかと」に聞こえて、よくわからなくて。でも、そんなことは気にせずに歌っていた。「お富さん」だってね、「いきなくろべい・みこしのまつに・あだなすがたの・あらいがみ」ですよ。
天辰
子供にはまったく意味なんてわかるはずがない(笑)。
来生
「くろべい」って、人の名前だろうと思っていたんですよ。「みこし」は「お神輿」かな、とか。仇な姿の「仇」をお富さんのあだなだと思っていた、とか(笑)。「くろべい」は黒い塀、「みこし」は「見越し」だって、後から知った。そんな感じで、まずメロディ、次にボーカルでしたね。その後、海外のポップスを耳にするようになって、ビートルズを聞くようになった時も、メロディ、ボーカル、サウンドで、詞は後回し。後から「ああ、こういうことを言っていたのか」みたいな感じでした。なんと言うか、メロディと歌とサウンドで、色んなところに誘ってくれるわけです。
天辰
イメージとかもありますからね。
来生
それで心を揺り動かされる。勝手に色んなことを思い描いたりして。だから、正直、詞については何も言えないんです。批評もできないし、書けないしね。例えば、「青空ひとりきり」とか、「春なのにさよならね。」とか、このワンフレーズだけで孤独感とか、せつない別れみたいなものを表現できるわけで、こんなの、とてもじゃないけど書けない(笑)。メロディもね、僕は普遍性のあるものを作りたい。ヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」って、たぶん、100人が聞いて、96人〜97人が「いい曲だ」と感じると思うんです。そういう曲、そういうメロディじゃないと、なかなか受け付けない。ビートルズで初めて買ったのは「リボルバー」なんですけど、そこから遡って聴くようになって、「なんで、こんなにいい曲ばかりなんだろう」と。駄作のないアーティストだな、と思いながら。その後に聞いたのはビーチボーイズ、ハリー・ニルソン。ハリー・ニルソンは、最初の頃が好きで。「ハリー・ニルソンの肖像」が一番好きなんですけど、彼は元々、銀行マンだったんですよね。実は僕も、こういう性格だから、小椋さんのようなレコーディングアーティストが理想だったんです。あまり表に出ず、楽曲がジワジワ浸透していく、みたいな。でも、実際にデビューしたら全面露出(笑)。「一気に売っちゃおう」みたいな。陽水さん、小椋さんに次いで多賀さんがプロデュースする第3の新人と言われて、ものすごく戸惑いました。いきなり雑誌のカラーグラビアに出ちゃったり。デビューは10月だったんですけど、翌月の11月には、TBSの「サウンド・インS」というロイ・ジェームスが司会の音楽番組で特集が組まれた。初めてですよ、テレビに出たのは。五十嵐さんっていう20代の若いディレクターが気に入ってくれて、局長に許可を取らずに、勝手に企画しちゃったんです。当時、しばたはつみさん、金井克子さん(由美かおる?)、世良譲トリオがレギュラーで、踊りが入って、コーラスがタイム・ファイブ。途中に、7〜8分のメドレーがあったんですけど、僕は4番目くらいで。当時は途中で間違えると、頭からやり直しだった。今だったら、何とかなるんじゃない?
末崎
いや、今でも「ミュージックフェア」は通して撮りますね。
来生
ええ、そうなんだ。その時はね、僕に来る前に、踊りとかが間違えて、何度かやり直したから、かなり時間がかかったんです。だから余計……
末崎
プレッシャーが?
来生
ものすごいプレッシャー(笑)。あの怖さは、トラウマになりました。実際に1回、失敗しましたから。何が何だかわからない(笑)。本当に怖い思いをしました。
「浅い夢」は、本当はB面だったんです(来生)
来生
デビュー曲の「浅い夢」は、本当はB面だったんです。「待ち人来たらず」という曲がA面になる予定で。「浅い夢」に映画の主題歌の話が来て、急遽、「浅い夢」をA面にしたんですけど、結局、映画の主題歌の話はボツになった。秋吉久美子さん主演の「パーマネントブルー」という映画でね、主題歌は、同じ年にデビューした岸田智史氏に決まっちゃった。でも、もう間に合わないから、「浅い夢」がデビュー曲になったんです。デビューアルバムも、業界内で、ものすごく評判が良くて、30万〜40万枚は軽く売れるだろうと言われていたんですけど、結果は6,000枚くらいでした。周りはショックだったと思うんですけど、僕自身は、自分のアルバムが出せただけで幸せだったから(笑)。ただ、申し訳ないな、と。次のアルバムは作ってもらえないかな、と思っていたんですけど、セカンドアルバムをアメリカのロサンゼルスでレコーディングすることになって、ビックリしました。本当は、小椋さんのレコーディングの“ついで”だったんですけどね。
末崎
フライング・キティ・バンドですよね。
来生
そうそう。「ついでに来生のも録っちゃおう」ってことで、急遽、決まって。海外に行くのは初めてで、飛行機に乗るのも初めてだったんですけど、スタッフは先に行っていたから、一人きりで行ったんです。レコーディングには、デヴィッド・フォスター、クラウス・ヴォアマン、ダニー・コーチマー、ジム・ケルトナー、エド・グリーン、リー・リトナー、ジェイ・グレイドンなんかが参加してくれて。ものすごい豪華メンバーでした。まさに綺羅星。
天辰
当時は、本当に海外録音が多かったですよね。
来生
結構、他のアーティストも海外で録音していました。このアルバムも、あまり、上手い具合にいかなかったんですけど、その後も年に1枚くらいのペースで出してもらえました。
天辰
それでいいっていう感じですか?
来生
それでいいというか……デビューの翌年、1977年に、しばたはつみさんに書いた「マイ・ラグジュアリー・ナイト」がヒットして、アーティストの活動より、ライターの仕事の方が多くなったんです。それでも年に1枚くらいはアルバムを出していたんだけど、鳴かず飛ばずで上手くいかなくて。でも、1981年に「Goodbye Day」が加山雄三さん主演のドラマ(愛のホットライン)の主題歌になった。レコードの枚数的には売れなかったんですけど、有線で火がついて。僕自身、アーティスト活動を止めて、裏方に行ったほうがいいのかな、と思っていたんですけど。
天辰
元々は、どちらが希望だったんですか?
来生
やっぱりライターですね。それで自分のアルバムを作ってみたいな、という感じでしたから。
天辰
比重はソングライターの方に。
来生
そうですね。でも、「Goodbye Day」の後、「セーラー服と機関銃」の話が来て、それで芽が出たという感じです。その後は、めちゃくちゃ忙しくて。
天辰
すごく忙しかったでしょうね、あの頃は。
来生
それで不整脈になっちゃたんです(笑)。でも、ツアーをやっている時も、ちゃんとローテーションを組んでもらって、作曲に専念する時間を設けてもらいました。
天辰
一昨年だったかな、薬師丸ひろ子さんが「時の扉」というカバーアルバムを出しましたよね。それに合わせてコンサートもおやりになったんですけど、やぱり、「セーラー服と機関銃」を歌うとすごいですね。会場が変わりますからね。
来生
当時はアイドルで、ものすごく人気がありました。
天辰
「あまちゃん」では、女優としてもすごかったですね。ちょうど、そのアルバムの発売のときにお会いしたんですが、「あまちゃん」以来、役柄の鈴鹿ひろ美の名前で呼ばれることが多くなったとおっしゃってました(笑)。
来生
今回、ツアーもやったのかな?
天辰
35周年を記念しての東京と大阪の2公演じゃないですかね。ただ、それを機に六本木のビルボードという小さな会場でもやられましたけど。
来生
あの人、全然、変わらないですよね。でもいい女優さんになられましたね。「三丁目の夕日」でのお母さん役は見事だった。
(次回へ続く)